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スポーツ指導と人間教育とN先生

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あるスポーツ指導者さんから、こんな話を伺ったことがありました。

「現場で指導している自分達の苦労というものは、恐らくそれを周囲で見てるだけの人達には、なかなか理解できないものだと思う。親は誰だって自分の子供が可愛いものだし、子供が順調にいっていればいいのだけれど、上手く上達していかないと、そこにどうしても親のエゴというものが見え隠れしてしまう。ところがこちらが現場で苦心していることはどうしても置き去りにされやすいし理解されにくい。」・・・と。

金銭などを頂かずにボランティアでお子さん達を指導されているスポーツ指導者の方々は沢山いらっしゃると思うのですが、そういった方々は仕事の合間を縫いながらお子さん達を指導したり、仕事の休日に朝早くから自宅を出て、それこそ一日中、お子さん達のスポーツ活動を支えるために尽力されている尊い存在だと私は常に感じています。

なかには指導上の非が無いに等しいにも関わらず、指導してきたお子さんのうちのお一人が練習や試合の途上で故障や怪我を起こしてしまった・・・と言って、私の治療院へ来るのに車で1時間もかけ、お子さんを連れ一緒に訪れてこられた指導者さんもいましたが、そのような責任感の強い指導者さんに出会うと心が熱くなります。

そんななかで私自身が指導者さん達へまず一番に伝えたかったことは、「どのようなケースにせよ故障や怪我は起こるべくして起こるものであって、スポーツを指導している以上、お子さん達に怪我や故障が起こるのは当然だと覚悟の上でお子さん達を指導してください。」という信念に立って頂きたいということでした。

もちろんお子さん達に対する配慮を行いながら、未然に防げる怪我や故障もあるはずですが、生身の人間の体ですから体格差や体力差は当然あるものですし、同じ練習を行わせていても怪我や故障を起こさないお子さんもいれば、怪我や故障を起こしてしまうようなお子さんが出てくるのは仕方が無いことなのです。

これは体罰に関する私自身の意見にも近似することですが、本当に相手の事を思って指導する中で、そのお子さんが「どうして伸び悩んでいるのか?」という道理の中には様々な問題が深層にあるからではないかと思うからです。

私が小学校高学年の頃、N先生という男性の担任の先生が、私達に勉強を教えてくれていました。N先生は常に「けじめが一番大切なんだよ。人間はけじめなんだ。」と仰っていて、生徒達がけじめをつけられないような場面に遭遇すると、本気で生徒達の顔をビンタして叱るので、N先生は私達の先輩の時代から「3mビンタ」というあだ名がつけられていたようです。

そしてその先生はPTA総会でも再三問題提起されてきたし、それこそ有名新聞に「暴力教師」として大々的に掲載されたりもしたのですが、その後も体罰を止めることはしなかったのです。しかし私はその先生を近くで見ていて、なぜ子供達に手を出してまで叱るのかが何となく理解出来たのですが、それは「その先生が真剣に私達と向き合っていたから。」だと、私は感じていました。

私自身もけじめの無い行動を取ったが故に、その先生にはビンタを何発か食らった一人だったのですが(笑)、叱られているときにその先生から目を離さずにじっと表情や目を見ていると、「本気で自分のことを叱ってくれてるんだ。」というのが、心から伝わってきたものです。

そして殴られた後味の中には「自分は悪いことをしたんだ。」という思いや、「けじめの無い行動をして本当に申し訳なかった。」という思いが、殴られた顔の痛みと共にヒシヒシと心から感じられてならなかった・・・という記憶が今でも鮮明に残っているのです。

私のところに施療を受けに来ているお子さん達は、チームの指導者さんに対する不満や愚痴を何も言わずに帰っていかれることが多いのですが、そのことをとても嬉しく感じてきたし、先にお話させて頂いた様に指導者さん自らがお子さんを連れて訪れてくれたときなどは、その指導者さんの責任感やお子さん達との絆を垣間見る思いがしてきて感動すら感じたものでした。

指導者さんの中には、お子さん達の怪我の状態や予後について真剣な表情で私に質問を投げかけながら、今後の指導法に対するアドバイスなどを求められることもあって、そのような真摯な態度でお子さん達に向かっておられれば、「きっとこのお子さんは大丈夫だな。」と私は感じてきたし、素晴らしい指導者さんに巡り合えてこのお子さんは幸せだなぁ・・・と思ったものです。

「伸びる・伸びない」・・というのは、もちろんそのお子さん自身が持っている才能だとか実質的な能力によって如何様にも変わることだと思います。スポーツというのは「勝ち負けの世界」である以上、やはり厳しさを前面に打ち出さなければ真に強き心や体は育まれないものだと思いますし、技術を習得しなければスポーツ競技能力の向上などあり得ないわけですから、それは当然と言えば当然なことなのです。

その上でどこまでもお子さん達の成長を願いながら、ただスポーツ競技の上達のみを目指すだけではなくて、一人ひとりのお子さん達が人間として今後の人生すべてに通じていくような指導というものを今後も続けていって欲しいと心から願わずにはいられません。

もちろん私はお子さん達が起こしてしまった怪我や故障を「治す側」の人間です。

そしてお子さん達の体を元へ戻すために今まで私自身が施療やアドバイスに汗を流してきたのは、お子さん達に人生を通して今まで行ってきたスポーツをいつまでも元気な姿で続けていって欲しい、夢をあきらめないで欲しいからでした。お子さん達の胸の内にある「夢」が、もし到底叶わないものであったにせよ、その夢に向かって少年期という時を過ごすことの大切な意味を心から感じて欲しいからです。

あのN先生が私達を叱ったあとに必ず口にした言葉は、「君達が悪いことやけじめのない事をするのは担任である私の全責任です。だから君達がこれからもけじめのない行動をしたら僕は真剣に君達を叱らなきゃならない責任があるんです。」・・・と。私はその先生の言葉を毎回聞かされるごとに、その先生の真の優しさや責任感というものを実感しながら、その先生を尊敬の眼差しで見つめていました。

数年前、小学校のクラス会が開かれ、私はN先生と約30年ぶりに再会し、N先生が東京のある区立小学校の校長先生になられていた・・・というお話も伺ったのですが、私はとても嬉しい気持ちになりながらも心の中で「N先生が校長先生になるのは当然だな。」そう思ったものです。N先生は新聞で暴力教師扱いされましたが、それから数十年の時を経て学校の責任者という存在になっておられました。そこに私は真実を見た思いがするわけです。

「指導」と一言で言っても、様々な分野があって、その「方法論」は多岐にわたるし理論的なものになれば、もっともっと多くの手法に分かれていくのではないかと思いますが、私はその指導というものの根底に「相手の成長を思う心、責任感」さえあれば、どのような指導方法をとったとしても、必ず相手に「何かが伝わる」のではないかと感じてきました。

そしてその指導というものが、伝えられる側にいるお子さん達の姿や言葉から私自身にも施療を通してですが、伝わってきます。治療後のお帰り間際に何度も何度も頭を下げて、私に「ありがとうございました。」と挨拶してゆくお子さん達。その礼儀正しき姿に普段からの指導者さん達の人間教育というものが心から伝わってくるし、また親御さんの後姿というものも見えてくるのです。

私自身も3人の子供の父親ですが反省の毎日ばかりで、そんな礼儀正しいお子さん達を見てはため息が出る思いですが、いずれにしても人間世界にあって指導とは一つのコミュニケーション・教育であり、それはスポーツであろうと勉学であろうと、目の前のお子さん達の未来の姿を創っていく大切な作業・働きではないかと私は思います。

未来あるお子さん達に指導を行っておられる尊い皆様の存在が、親御さんや地域の方々から温かいお心に支えられながら、お子さん達の成長と共に心から見守られていくことを私も心から願っています。(院長)