メイン | 人生の処方箋・・・「生きる」 »

日本社会と自殺・・いじめの構造

2006年12月、私達家族はファイターズの優勝旅行の為、ニュージーランドの旅に出かけました。

そこは大自然と動物と人間が豊かに暮らすことの出来る素晴らしい国でした。そして30代の頃、日本全国を飛び回って各地を旅しながら仕事をしてきた私自身が、ニュージーランドの人々の暮らしと、日本に住む我々の暮らしぶりとの違いを、そこで大きく感じないわけには参りませんでした。その中で今日はこんなテーマから少しお話しをしてみたいと思っています。

21世紀に入り、日本人の自殺者は急増しているように思いますが、これは全世界中を比較しても上位を占める割合です。自殺に対する年齢層・職種(無職者も含む)・原因などを調べてみると、一般的傾向が良く表れてくるのですが、一番の原因はやはり【周囲環境と精神環境の問題】に絞られてくると私は思います。

一昨年、日本では学童による自殺問題が社会で大きく取り上げられる事態に見舞われていました。日本の教育環境と学童に対する精神的な配慮・教育に対する問題点の中に【いじめ】が最大テーマとして挙げられてきたように思いますが、何故教育現場でそのような【いじめ】が発生し、何故その【いじめ】によって自殺をする子供達が増えたのでしょうか?私は様々な角度からそのことについて想いを巡らしながら、これらの事実を通してずっと自殺問題を考えてきました。これは学校や家庭環境の問題だけでは無く、日本の社会構造の問題の一端として大きく捉えてみたらどうなのか?・・・というのが私なりの観点であり、また大きな疑問でもありますが、自殺の本質的な問題点では無いのかと考えています。

【いじめ】を大きな目で捉えてみると、その形態は様々なものがあると思いますが、いじめという言葉からイメージを呼び寄せてみると「閉鎖・孤立・集団・弱者・暴力・失意・不満・圧力・怒り・嘲笑・差別・罵声・無視」など、様々な言葉達が出てきます。しかしこれらのキーワードは何も学校社会のみに存在するわけではありません。社会の中でもこのキーワード達は多く存在していますし、それらが社会構造の中で生まれていく過程は様々な形態であると感じます。

【村八分】という言葉があるのは皆さんもご存知かと思われます。形骸化した言葉ではありますが、日本の社会構造の中で生まれた村八分は、部落民などによって、個人に対する絶交や畏怖などを村の人達が集団で行い、その対象者である個人の生活を脅かす行為と言われています。これらは現在、法律の中でも脅迫罪の適用が課せらており、もちろん禁じられた行為であり犯罪として扱われます。

この脅迫罪に関して、【脅迫行為】とは「脅迫罪においての脅迫は、人の生命、財産、身体、名誉、自由(通説によれば貞操や信念も含む)に対して害悪する告知を行うことである。相手が恐怖心を感じるかどうかは問わない」とあるように、個人に対する保護法であり、要するに「何ものにも生活を脅かされることは法の下で許されない」ということになります。個人を攻撃し、その個人の生活・行動を積極的に脅かすことは法律上でも禁じられている通り、「いじめや村八分」は「犯罪」です。そして脅迫罪以外にも強要罪、恐喝罪、詐欺罪などがあり、法律の下では個人の尊厳を破る行為は罰せらるる対象になっています。

学童のような未成年者において、これらの法律がどのように機能し、適応がどのようにして行われているのかは、未だ調べていないので私には解りません。ただ学校社会における教育者権限や教育指導要綱に定義されている内容とは当然、それらの法律に準拠しているのでは?と思います。学級内や校内における「いじめ」に対する問題には、教育者の威厳をもって対応していく事が望まれるのですが、体罰への問題視など、学校の先生が抱える問題点には親との関わり合いも密接になってきます。そういう点からすれば、親の過保護による子供達の無秩序さそのものを問題視しないわけにはいかないのではないかと私は感じています。

生徒達の学力の向上、人間としての尊厳、集団と個人との関係性や未来への希望など、これから大人へと成長していく子供達への教育の在り方というのは本当に大切であり、その子供達が将来の社会の主人公である以上、その子供達と親や大人たちの関わり合いというものが、彼らに大きく作用を及ぼし影響を与えているということを忘れてはならないのではないかと思います。

子供達は学校の先生や親や社会に生きる大人達の姿を通して社会を見つめています。

「閉鎖・孤立・集団・弱者・暴力・失意・不満・圧力・怒り・嘲笑・差別・罵声・無視」これらのキーワードを私達がよく考え、自らの行動を省みていく必要があることは言うまでもありませんが、「不正」「規律」「自由」「希望」・・・これらのキーワードにも真摯なる態度が求められてくるのではないでしょうか。悪いというのは何なのか?正しいというのは何なのか?規律とは何なのか?自由とは何なのか?それらを充分考えながら生きていかなければならないのは大人である私達では無いかと感じています。

社会構造の多様性の中において、大切なものが失われていくとすれば、それは経済というものの表層のみに関心を向けて、大切な心を失ってしまうことにこそ警鐘を鳴らしていくべきでは無いのかと私は感じています。
経済苦、病苦、諍い、絶望・・・自殺者の原因は様々だと思いますが、同じ人間として人生の坂を共に歩むということを成し遂げていく為には、人間誰にでも助け舟が必要なときがあるのだ、ということを忘れてはならないと思います。

人間という字は「人の間(あいだ)」と書きますが、人間とは人と人との真ん中にある「何か?」を探しながら生きていく存在であり、その「何か?」に対する答えの中にある「慈悲、尊敬、希望、夢、思いやり、優しさ、厳しさ・・・そして真の強さ」それらのキーワードが入った時にこそ、人は人間として共に生き、そして共に死ぬことができるように感じています。

ニュージーランドに暮らす人々の人種は様々でした。そこで生活する全ての人達が経済的な豊かさをもって暮らしているわけではありませんでした。食べ物だって日本人のように贅沢三昧では無かったし、道を走っている自動車も日本から輸入した日本車の中古車が7割を占めているそうです。消費税は12%も取られていましたし、平均年収も350万円だということでした。しかしニュージーランドに住む人々は夕方の5時半になると仕事を終え、皆んな家路につき、家で家族と過ごす時間を有意義にもっているというのです。一般道路は最高速100kmで走っていました。高速道路は無料で走れます。犯罪が全く無いわけではありませんが、夜になれば家でゆっくり過ごす時間を大切に出来るようでした。そしてそこに住む民衆は国土である自然を愛し、自らの夢を追いながら一生懸命に働き、遊び、自分に誇りをもって生きている人達が多いのでは無いかと私は感じました。

我々日本人がニュージーランドに住む民衆と全く同じ生活になることを望んだとしても、そこには環境の違いというものが存在していますが、日本という島国で暮らす我々の生活を支えているものは国土にある自然や地域環境であり、そして経済の中で存在する家庭というものです。それは何処の国においても変わらないものでしょう。

しかし自殺の多い国の中でも上位を占めている国はロシアであり、日本も上位のうちに入っています。ロシアの国土に比較すればこんなに小さな島国であるのに、実は年間に3万人もの人々が自らの命を死に追いやっているのです。その数は一年間の交通事故死者の数をも上回っているのです。これは大きな社会問題では無いかと私は思っています。その事実を考えるにつけ、「ありのままの国の姿や、ありのままの日本人の姿」を見つめないわけには参りません。文化とは人間性の表れであり、芸術や音楽はその文化の中でも希望に満ち溢れた世界、存在であると思います。そういった人間が創造しゆく文化そのものを昇華させていく為には、真の強さが必要ではないかと思います。一人の人間が勇気をもち、どのような環境や境遇に生きようとも、強く逞しく生き抜く力を自らが示す事で、周囲に存在する人々に大切なものを感じさせることが出来るのだと私は思います。

1本の木も何十本、何百本もの木が集まれば大きな台風が来てもなかなか倒れません。そして人間も一人では生きていけないのです。この日本に住む我々大人たちが互いに支え合って生きていく姿を子供達の目に映し出していくことが今、この日本に住む子供達にとって必要な事では無いのかと思います。