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安らかに・・・

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読売巨人軍・木村拓也1軍守備走塁コーチが昨日7日の深夜、広島市内の病院で亡くなられたと報道を通して知りました。信じられません。本当に残念です。

当時、木村君は日ハムの新人選手。私は日ハム専属2軍トレーナーの1年目でした。練習を行っていた多摩川グラウンドへと向う前、新人選手達は必ずトレーナー用具や野球用具などの積み下ろしや選手達のアイシング用の氷の準備、練習が終わってからは交代で合宿所の電話当番をやっていたりと、そういった雑用仕事もこなしながら、野球の練習に取り組んでいました。

しかし彼は何一つ愚痴を言わず、黙々とそういった雑用仕事であっても真面目にこなしながら、グランドでは人一倍負けないくらい練習をこなしていました。

当時、彼はキャッチャーで入団。ファーム・バッテリーコーチの淡河さんから毎日毎日厳しいノックを受け、彼のユニフォームはいつも泥まみれでしたが、いつも鋭い眼差しを感じていました。

練習中、彼の打球を目で追っていると、いつも内野の頭を越えるのが精一杯でしたが、だからこそ毎日毎日スイング練習に明け暮れていたのでしょう、手にはいつも沢山のマメが出来ていて、トレーナーボックスからテープを取り出しては、手のひらにテープをグルグルと巻きつけては、再びバットを何度も何度も振り続けている姿を目にしていました。

トレードで木村君が広島カープに移籍する頃、私はちょうど時を同じくして1軍トレーナーとして勤務することになり、それから数年後、彼が広島で大活躍する姿をテレビの画面で見つめては多くの勇気を貰いました。

「あれだけ努力してきた男なんだから、1軍で活躍して当然だよな。」

心の中ではそんな思いもあったのですが、広島へと移籍した木村君はきっと日ハム時代にも増して努力を重ねながら球場でプレーしていたのでしょう。キャッチャーとしてプロ野球の世界に入ってきた木村君はいつの間にか、セカンドを守りスイッチヒッターになっていました。

そんな木村君の勇姿を見て、「プロ野球というところは才能だけで生き残れるような甘い世界じゃないんだな。いかにして自分の生きるべき道を創るかなんだ。」と感じさせられたものです。

当時 ドラフト上位で日ハムに入団した選手達の中には、彼よりも先にユニフォームを脱がなければならなかった人達もいました。だから実績を買われドラフト上位で入団出来たとしても、ただそれだけのことで生き残れるような世界では無いということです。木村君はドラフト外の入団だったのですから。

当時のドラフト外選手と云えば、現在の「育成枠選手」を指していますから、木村君の努力がどれくらいのものだったのかを考えてみると、それは計り知れないものだったのではないかと思いますし、きっと強い意志が備わっていたのでしょう。

その後、広島から巨人へと二度目の移籍があり、そしてアテネ・オリンピック出場を果たし銅メダルを。そののちにもジャイアンツに無くてはならない選手として大活躍、昨年は古巣の日ハムと日本シリーズで対戦し、惜しまれながら現役を引退。今年から指導者へと新たな第一歩を踏み出したばかりでしたが、きっとチームの中でも信頼される存在だったのではないかと思います。

今年度のプロ野球・新人研修で木村君が新人選手達に講義を行った・・・という報道がありましたが、ジャイアンツのホームページに講義の内容が掲載されていました。是非、野球少年達にも読ませてあげたい内容ですね。


謹んでご冥福をお祈りいたします。
木村君 安らかに。