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桜梅桃李の花咲く人生/人間の悩みと心の病と社会

人間には様々な悩みがあるものですね。個人的な問題、家族的な問題、地域的な問題、社会的な問題といった様々な局面において、人間はそれぞれに悩みを抱くこともあるでしょう。

それから仕事上においては職場の中で抱く人間関係や職務内容、就業内容について悩みを抱く人も多いであろうし、そこには自分が求めているものと周囲から求められているものとのギャップに頭を抱えてしまったり、そういった精神的な悩みが心の病となって身体的な異常を生む一つの原因となったりすることがあると思います。

現代社会には様々な矛盾もあるだろうし、どれだけ日本が平和を維持してきたからといっても、そこには大きな試練というものが存在するのではないかと思います。

たとえば社会福祉の充実したスウェーデンという国に目を向けてみれば、日本などはまだまだ社会福祉の面から言っても立ち遅れている・・・ということになるんですけれども、それじゃスウェーデンに住んでおられる人たちは皆んな悩みなどないのかというと、実はそうでも無いようなんですね。というのもスウェーデンがあれだけ社会福祉が充実しているにも関わらず、実は自殺を試みるような人達が非常に多いそうなんですね。

それが何故かというと「何の悩みも無しに老後が暮らせるという部分が私達日本人からすれば良い面だと思うはずであるのに、実は生きていくのに悩みが無いということになると、そこに生きがいを見出せなくなるような人達が出てきて、そういった人たちが自殺を試みている」ということなんだそうですね。

これは社会構造と人間というものを考えていく上で非常に重要な出来事であると私は感じてしまったんですね。何故なら何の悩みも無く生きていけるというものを目指して生きていくと、今度はそれが実現された場合には、そこに生きがいがなくなってしまう・・・ということであれば、人間が抱く「悩み」というのは一面では厄介なものであるけれども、またそれが完全に失われてしまっても、これもまた厄介である・・・ということになってくるからです。

そういう面から考えていくと人間が抱く悩みというものは、実はそれがあるからこそ人間は何とかそれを克服しようとして「生きなければならないんだ」という自覚を持つのかも知れませんし、その反対に悩みが無くなってしまうと「それでは生きがいを保てなくなる」ということを本質的に知っているからこそ、人間はどの局面においても何かに対して悩みを見い出しながらも、そこに人生に対する生きがいを保っていくような術を心得て今という時を「生きている」のではないか?という疑問も湧き上がってくるんですね。

例えば貧乏な生活をしていた人がいて、毎日の食費もままならないような人がたまたま3億円の宝くじを当ててしまったとします。

この人は今までさんざんお金に不自由して生活をしてきたけれど、賞金で貰った3億円を手にしてどのような生活を営んでいくいくのでしょうか。まず家を買って、車を買って、そして自分の欲しかったものをお金の許す限り買い続けるのでしょうか。それともしっかり頭の中で計算をして一生働かずに食べていけるように計画を立てながら、その3億円を糧に一生を過ごすのかもしれません。また3億円を元手にして商売を始めて、その商売によって自分のお金を10倍にして更に豊かな生活が出来るようにと果敢にチャレンジするかもしれません。

いずれにしてもどのような生活が待っていたとしても、その人が生きている間に、その3億円を使い切るか残すのか・・・というのは、その人の「生き方」によって変わっていくことだと思うんですね。

しかしその3億円を自分一人の為に使おうと何に使おうと誰も文句を言うわけではありませんし、自らの欲するままに生活を営み、誰に文句を言われなくとも、その人は3億円を使い切って生活を営む事が出来るはずです。実際、そういった体験をした人も世の中にはいるだろうし、それで一生を終えてしまえば、お金で苦労することはありませんから、お金に対する悩みは若しかしたらしなくて済むのかもしれないんですね。

ところがそのお金には全く手を触れず全部使わずにしておきながら、自分が死ぬ間際になって、若しくは遺言などを残して、自分の莫大な資産というものを寄付するような人達もこの世の中にはいるそうなんですね。

アクセクと働いている我々からすれば「なんてもったいないことを」と思うところでもありますが、お金に余裕のある人ほど、そのお金にはほとんど執着が無い・・・ということにもなってくる例え話になりますが、そのようにして私たちが日頃から抱く悩みの本質を考えていくと「執着」という人間の心の中で起きてくる本質的な問題が深く関わってくるようなお話ではないかと思うのです。

テレビでもよく放映されておりますが、小児ガンを罹ったお子さん達が病院のベッドの上にいても笑顔で親を励ましたり、周囲にいる人達に生きる勇気を振りまきながら、この世を去っていく・・・といったような勇敢な姿を目にすることがありますが、彼らのように何の理由もなく重大な病気を抱えたとしても、自分自身の短い一生を果敢に生き抜きながら闘病を続けている人達というものもおられます。

また出産を控えたお母さんがその直前にガンを患い、自分のお子さんを出産して間もなくしてから、この世を去った姿を目にしたこともありますが、そういった人間の姿をみたときに私達は寸分足りとも生きている時間というものを無駄にしてはならないのではないか?と自問自答させられるのであります。

それは恐らくそういった闘病の姿から現われている「生きている」ということの素晴らしさ、勇気の姿から感じる人間の本質的な悩みへの処遇というものが大切なのではないか?ということを深く感じさせられるからではないかと私は思うのです。

どのような局面にあって悩みを抱こうと、それは「生きている」からこそ生まれるものであり、その悩みという壁を乗り越えることによって、今よりも数段素晴らしい人生が自分自身の目前に存在する・・・ということを信じて前進していくというところにこそ、真の生きがいや喜びが存在するということを知っているのが人間なのではないかということになります。

そうでなければスウェーデンの国の人達が充実した社会福祉制度や社会保障制度によって何の苦労も無く生き永らえることのできる環境を国から整えられていることによって、反対に生きがいを見いだせなくなる・・・というような現象は起こらないのではないか・・・というのが一つの私の考え方に入ってくるのです。

お金という物質的な存在そのものによって人生を惑わされていくような人も中には出てくるし、その反対に先に挙げたようなお金に対して全く執着を持たないような人もいるということの本質的な姿の中から見出せるものとは何かと言えば、それは人間の生き方の中にどのような悩みを持って生きているのか?という「悩みの次元の違い」こそ、その人を端的に現わしているシンボルマーク=悩みというようなものになってくる・・・そういう側面を見出せるのではないかという考えに至ってくるわけであります。

今 世の中は大変不況の最中にあると言われているけれども、戦後間もない頃にまだ幼い少女だったという母から話を聞けば、どれだけ今の世の中が豊かなのか・・・ということが理解出来ます。大根の葉っぱを少ない白米の中に足して量を増やし、大勢の家族の中で皆で分けながら食べる・・・といった戦後の家庭の食卓の話を聞けば、私達はまだまだ恵まれた環境の中で暮らしていることになります。

そう考えてみると私達の生活の中で当たり前だった事柄が、どれだけ贅沢でどれだけ恵まれてきたのかという母の価値観の目で見れば、私達が今まで当たり前だと信じていたものが「物凄い贅沢」に映るということになってくるのでしょう。

そういった母からのお話を聞くにつれ、人間の悩みの次元そのものというのは、その人の生きてきた環境によって、如何様にも左右される類のものである・・・ということではないかと言えるわけです。だから今 私達の目前にある物や人、それから環境を「当たり前」という考え方を持つ前に、まず私達はそこに「感謝」というものを見いだす必要があるのではないかと考えるのです。

「今日は本当に儲かった。良かった良かった。」「今日は楽してお金が沢山入ってきて嬉しいなぁ。」そういう考えを抱きながら幸運だったと感じるならば、尚更、その恩返しのつもりで社会に貢献していかなければという思いを強めていくような生き方が出来るならば、きっとそのお金という物質的な側面の外側に、心の豊かな在り方、生き方が備わっていくのではないかと考えられなくはないでしょうか。それはその人その人各人の持つ価値観でもありますが、そういった考え方・処し方によっては、社会の中で感じていく心の痛みというものも、強ちただの痛みではなく、その痛みによって培われていくような心の強き姿に繋がっていきながら幸福な存在へと大きく進路を変え繋がっていくのではないかと思うのです。

いずれにせよ孤独な世界の中でただ一人悩みを抱き、心を痛めてしまう前に、親や兄弟、親友や友人・仲間、先輩や後輩、そういった人間の繋がりの中で共感を抱きながら、どのような悩みを持っていたとしても、その悩みがあるからこそ互いに信頼を抱きつつ、この人生というものを豊かに過ごしていく源泉となっていくことを垣間見るような気が致します。

そして良い面だと思う事も悪い面だと思う事も、裏を返してみればその正反対になるということもある・・・ということであり、二極化された価値観よりも、そのど真ん中を目指しながらより良く生きることに目を向ければこそ、そこに真に実利性のある価値を見いだすことができるのではないかと思うのですが、私はそのように考えたのです。

人間というのは十人十色、桜梅桃李ですものね、その中で悩みながら心の痛みを互いに持つのも又、人間であるが故なんでしょうね。多くの人達の「生きる勇気の姿」を垣間見せて頂きながら、私も私なりにそんな勇気の姿で施療を行っていきたいな・・・そんな風に想いを抱いているのです。