健康長寿と社会

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将来、人間はこの地球上で一体「何歳まで生きられる」ようになるのでしょうか。現在でも100歳を超えて元気な姿で人生を悠々と生活されているご高齢者が存在していますが、人間は生物学的・細胞学的にみても、本来は「120歳」まで生きることが可能な「生物」であるということです。

しかし外的因子(環境要素など)や内的因子(遺伝的要素や精神的要素も含めて)によって、人間の多くは120歳の寿命まで生きるのは実際はなかなか難しいことではないかと思います。しかし沖縄のように長寿のご高齢者が多く存在している姿を知れば、その可能性は開かれたものであることを知ります。

現代科学の父と呼ばれた故ライナス・ポーリング博士は、臨床医学におけるビタミン治療の研究にも尽力されてきた方ですが、生前ある対談集の中でこう述べております。「将来、誰もが100歳、110歳までも、病気に苦しまず、何の不自由も無く生きていける。そうなれると思います。」

これから将来に亘った研究によって、人間の生体というものが完全に解明され病気の諸原因が全解明されていくならば、それに呼応する形で対処法が発見されるならば確かに人間は120歳の完全なる寿命まで確実に生きられるようになるのでしょう。

人間が病気に陥る最大の原因の中に「ストレス」というものがありますが、このストレスには「肉体的ストレス」と「精神的ストレス」があります。遺伝的要素は除外するとして、人間が健全な肉体、健全な精神を司って行く為には、まず精神的な健康というものを第一に考えていかなければならない・・・そう考えているのは恐らく私だけではないはずです。

精神的なゆとりを生む為には「余暇」や「楽しみ、喜び」、「スポーツ、娯楽」など楽しいと感じるものに価値を見出して、それらを生活の中に取り入れていく・・という考え方、行動がありますが、もちろんこういった「ゆとり」こそ健全な精神を維持していく一つの「健康法」ではないかと思います。そうすると人間がまず精神的なストレスに打ち勝っていくためには、常に心の中に「楽しみや喜び」が溢れている必要性を感じます。そしてそれは人間個々の心の中にある自分自身の欲求という「見えないエネルギー」が現実というものを通して、「実現される必要性」があるように思います。

究極的に言えば、人間個々の心の中に渇望を呼び込んでいる「欲」というある種の「精神的なエネルギー」があるからこそ、そのエネルギーを現実の生活の中で上手に変換していくことで、実はそれが健康であるための主たるエネルギーになるのである・・・・そう言えるのではないでしょうか。しかし人間の欲望そのものの中には「独占欲、金銭欲、支配欲」といった、現実の世界に不幸を呼び込んでしまう強大なエネルギーをも内包されているように感じます。

その反対に「ボランティア欲、保護欲、母性欲、父性欲、向上欲」といったような、人間を真に人間らしく成長させる「真の欲」・・・つまり健全なる精神を培う大切な働きをする欲求もあります。この相反する欲という人間の精神的なエネルギーを現実の世界でより健全に生きる為のエネルギーに変換していく為には、実は人間の「価値観」というものに視点を置かなければなりません。価値観とはつまり「生き方」であり、「人生への指標」であります。

長寿を成し遂げているご高齢者とは、そのような「善き生き方」を貫いてこられた立派な人に多いと感じますが、それは自分自身の欲というものに対する処し方が絶妙であり、素晴らしい自己統制の結果であることは事実であります。それは取りも直さず私達への健康長寿に対する「生きた参考書」であり、その健康的な長寿の姿から学んでいく必要がある・・・そういうことではないでしょうか。

今年の4月、私は以前勤めていた治療院の院長先生より、ダンス雑誌「舞land」の健康コラム執筆の仕事を薦められたのですが、編集長の高橋禮子女史はご高齢を全く感じさせないほど、優雅で清楚な面持ちでありました。初めてお会いしたのは私の治療院の待合室ですが、そこで繰り広げられた高橋女史の情熱的で20代の若さを感じさせられるような「ダンス界への理想と希望」は、そのまま女史の健全なる姿に映し出されておりました。

人間は幾つになっても情熱を持ち続けて行動することによって、いくらでも健康的な長寿を目指せるのである・・・これが一番の健康法であり、そのままを原稿にしようと思ったのですが、それでは「健康コラム」として成り立たないかもしれないな・・・と躊躇したので(笑)、このことをブログに掲載しようと考えました。

いずれにしても人間が健康的な体でいるためには、病気をしないような生活をまず心がけていかなければなりません。その為には日頃の運動・食事・睡眠の3つが整わなければならないのは言うまでもありません。

そしてそういった自己統制を成し遂げて行くための精神のあり方とは、つまり「善き生き方」の事であり、何を標榜して生活しているのか?というのは、そのまま自分自身の寿命となっていくということではないでしょうか。

つまり・・・長寿を迎え、現在も100歳を超えて元気な姿で生活しておられるご高齢者の皆様を大切にするような社会を構築していく・・・そういった事を皆んなが考えて、この国に築いていくことが、まず第一の目標であり、そういった方々をサポートする体制を敷くことです。国の政治というのは、その為に働かなくてはならないはずです。

多くの元気な若い世代の青年達が社会からニートだ、フリーアルバイターだと呼ばれながら、それでも彼らは彼らなりに世の中で必死に生きていますが、彼らにとってもそれはその後の長い人生にとっては避けられない問題です。まず社会保障というものが長寿者をしっかりとサポート出来るだけのシステムに再構築しながら、若い世代の人達がその後の人生を安心して暮らせるような社会を創りあげていくことが必要ではないでしょうか。そしてその間に位置する私達の世代がこれらを成し遂げていくことを標榜していかなければならないし、それが世の中を良くする・・・ということではないかと思います。

私達人間は社会とは切っても切れない関係性にあり、各人の生き方や考え方そのものが直接的・間接的に社会現象として現れているに過ぎないことを知ります。それらをしっかりと見つめ考えを持ち、まず行動を起す中で社会を改善していく為の「イエス、ノー」を表現していかなければなりません。社会に無関心であるということは、そのまま「自分の生に対する無関心」に通じており、それが現在の日本の社会的な陰に潜んでいる「精神的なストレス」ではないかと思うのは、実はこういったことからです。

意志有る人々の中には既にある問題でありますが、この日本はもとより,どの国においても、経済の発展と人間の長寿というものが正しくリンクしていくようにならなければ、本来 「長生きするということが幸福である」・・という価値観が心の中で芽生えていくはずがないのです。これはこれからを生きる若い世代の人達にとって考えていかなければならない問題でしょう。その為には若い世代が夢を実現していくための環境を国がしっかり整えて、その誰もが平等に学び、そして各人が成長を遂げていく事の出来る社会というものが真に築かれていくことが、次なる世代の長寿者を支え、この国の繁栄に結実していくものと思います。

健康×長寿=幸福な人生

その為に何が必要で、何が不要なのか?それが人間の生き方に通じており、将来の自分の姿、社会の姿であることを考えながら、まずは足元の一歩から・・・それが健康の法則の一つではないでしょうか。

高校球児と有志の集まり

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今日は雨が降っていて何となく肌寒い日曜日になりましたね。こんな日はゆっくりと家で過ごせる完全休養日になる人も多いんじゃないでしょうか。

さてこの6月から7月にかけては梅雨時期というのもあって男性は腰痛を主訴として来院されるかたが増えています。女性はどちらかというと倦怠感だとか肩こり、それから胃腸の不調を訴える人がいて、それなりに季節柄の傾向もあるのかな?という感があります。

ここのところスポーツ障害で来院される学生さん達も続いてご来院頂いておりますが、そろそろ大会などがあって痛みを持ちながらも試合には出場したい・・・そういった要望も増えてますね。スポーツ障害というのは動かさなければそれほど痛みや違和感がないのに、特定の動作で痛みが発現しますから、一番厄介な障害なんですね。

病院に行けば「少し休みなさい」そう先生から言われることが多いと思うんですが、そうでなければ怪我や障害が治癒に向うには難しい・・・そうご判断されるから西洋医の先生方も「休息」をご指導されるわけで、確かに休めるならば休むに越した事はない・・・それは当然の事ですよね。

それでも高校球児の皆さんなどは「もう今年が最後の年だから」とか、1年生であれば「夏の大会が終わったら僕達も本番なので、その時期までには完全に良くしておきたい」といったように、各学年によっても「都合が違う」といったものも感じています。

いずれにしてもスポーツを継続しながら怪我や故障を治すというのは、それなりに日々の生活の中で出来る事を「自分自身で行う」ことが求められていきますから、そういった生活指導やコンディショニング法を施療の前後に指導させて頂きながら、ご本人や親御さん達への理解を深めて頂いています。

学校によってはトレーニングやコンディショニングに対する指導法が「曖昧」で、強化と障害予防の側面から考えても、「このプログラムでは選手達はかなりシンドい思いをしながらやってるんだろうな」と思うこともありますし、反対に「これだけしか練習しないんじゃ、レギュラーは良いかもしれないけど、控えの選手や1年生達は強化不足、練習不足になっちゃうなぁ」そんな事を感じることもあります。

指導する側の人材不足であれば仕方ないかもしれませんが、練習やトレーニングの過不足やコンディショニング法の指導が無ければお子さん達は大切な時期に学ばなければならないことを学ばないで通り過ぎてしまいます。これではお子さん達が少し可愛そうです。

成長期に有る中学生から高校生の時期というのは、身体的にも精神的にも大きな変化を見せる時期ですが、体重、身長、体脂肪率、それから身体各部位の周計測や筋力、走力など、トレーニングなどの基準にするべき情報を全く持たずにただ強化を行っていれば、結果的にその効果や実証をその後に判断することが出来ません。

試合の勝敗だけで全てを判断するならそれはそれで良いかも知れませんが、お子さん達にスポーツを有意義に行わせていく面からすれば、それでは片手間になってしまうことでしょう。何処まで管理してお子さん達を鍛え上げていくかというのは、当然その学校の規模によっても違うものです。およぞ寮生活をしながら部活動を行っているような私立学校と、日々自宅通学で部活動を行っている県立学校などでは、その指導の内容も自ずと違ったものになっています。

団体競技の場合には数名の有力な選手だけでは大会を勝ち抜く事は不可能ですから、満遍なくお子さん達を鍛え上げながら総力戦で挑まなくてはなりません。特に高校野球ではピッチャーの力と打線の全体的な力が試合の勝敗を決めているようですから、素晴らしい能力をもったピッチャーが存在している学校以外は、守備力や打線の強化で大会を戦っていくしかないんでしょうね。

そういう面から考えても野球というのは個々の力の集大成で勝負しているわけで、その中でも全国レベルに到達していく為には、厳しい練習を潜り抜けていく選手個人の体力や精神面が確保されて初めて、可能となってくるのかもしれませんよね。

そのスポーツが好きだから部活動をやる・・・・という次元で出来うるチームと、そうでは無く更に上を目指して行っているチームがあるとすれば、その選択の幅というのは大きく、それがたとえ私立だろうと公立であろうと全国大会に出場出来れば優勝出来る可能性はゼロではありませんから、そこに行くまでの可能性そのものというのは、実は集まってきたお子さん達の潜在的能力と指導する側の情熱と創造性でいくらでも変化していくのではないかと思います。

以前、九州・佐賀県の公立高校が夏の全国大会で優勝を飾ったことがありますが、学校の運動部に対する規模・運営の仕方だけでは無く、そこに集まった有志の総合的な力が最後には勝敗を決する・・・これはプロもアマチュアも、そして学生も同じなんでしようね。

子供達からの質問

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「先生・・・先生ってダルビッシュとか新庄のこともマッサージしてたんですよね?」

そんなことを中学生や高校生のクライアントさん達から施療中に良く聞かれるんですが、そんなときにはこんなお話を子供さん達に話して聞かせています。

「そりゃもちろんダルビュッシュだって新庄だってマッサージしたことあるよ。でもね、彼らだけがプロ野球選手じゃないんだよ。例えば2軍にも選手達は一杯いるだろ?先生が1軍でトレーナーをやってた頃はレギュラーの選手達ばっかりよくマッサージしてたけど、2軍でトレーナーやってた頃はね、1軍に上がろうと歯を食いしばって毎日練習したり試合に出ている若い選手達の体を診てきたんだ。そうするとね、1軍の試合に出ている選手達と2軍の選手達の体の違いっていうのが本当に良く解るんだよね。そうやって色んな選手達をマッサージしながら経験を積んで来たから君たちの体を診たときに君たちがこれからやらなきゃならない事も本当に良く解るんだよ。だってスポーツっていうのはさ、自分の体と心で戦うもんだろ?もちろん生まれ持った才能の力だってあるかも知れないけどさ、やっぱり見えないところで努力してる選手達がプロの世界でも生き残ってるんだから・・・そういうのって解るよね?」

「ジャイアンツに木村拓也っていう選手がいるだろ?彼は先生と同期生なんだよ。木村君は高校卒業と同時にさ、ファイターズにキャッチャーで入団してきたんだよね。でも今はキャッチャーやってないだろ?先生は木村君がファイターズに入団した年にファイターズの専属トレーナーになったんだけどね、彼を当時見ていて本当に真面目なタイプの選手だなぁ・・・って感じてたんだよね。でもそれほど目立つような選手じゃなかったし、まさか木村君があんなに活躍してプロ野球の世界で長い間選手を続けていられるとは思ってなかったんだよ。だけど今もジャイアンツで野球を続けてるし、レギュラーで試合にも出てるよね?そんな彼の活躍の姿を見ているとね、野球は絶対に才能だけじゃ無いっていうのが解るんだよね。見えないところでどれだけ努力してきたのかっていうのが、やっぱり大切なんじゃないかな?違うかな?」

こんな話を子供達にすると何故か神妙な面持ちで「なるほどなぁ・・・」といったような顔で私の目をマジマジと見つめるんですね(笑)

確かにプロ野球の世界で光の当たっている選手っていうのは、子供達にとっても「夢や目標」とする姿に映るんだと思いますが、彼らの目にはあまり映らないような選手だって大勢いるわけですよね。野球は一人じゃ出来ないですから、色んなタイプの選手が揃ってないと面白くもないわけです。そういう意味でも何かしらの可能性を持った子供達が野球に夢を抱きながら上を目指していく中で、そういった話を私のようなプロ野球で生活をしていた者が真面目な顔で話をしてあげると、やはりそれなりに重みを感じてくれるような気がするんですね。

先天的に才能があるからプロ野球選手になれるんだ・・・・。確かにそう言われればその通りなのかもしれませんが、実際はそうじゃないと思うんですね私は。光の当たらない選手や目立たない選手達も実は陰で必死に練習しながらチャンスをものにして上に行く事を常に意識しながら野球をやってるんだと思うわけです。そういう目に見えないところを私は子供達に一杯話を聞かせてあげたいなぁ・・・と常々そう思いながら色んな話をしてるんですが、もちろん華やかな舞台で目立っている選手達が彼らの気を引くのは理解しています。だけどただそればかりに目を奪われていても、自分が野球をやるんだ・・・という立場に立ったときには、それが逆にマイナス要素にもなる気がしてるんです。

ただ一つだけ言える事は野球だろうとサッカーだろうと「自分」を良く知って、その自分の良いところを自分自身で伸ばそうと努力してきた人間が、やっぱり一流になっていくんじゃないかと思うんですよね。一流と呼ばれる人達だって、もちろん水面下で努力してきたからそこまで到達したんですからね。

確かにダルビュシュや新庄に限らず、実績を残した選手達は素晴らしい身体能力と精神を兼ね備えていると思いますが、長い間色んな選手達をまじかに見てきて言えることは類稀なる身体能力だけじゃなくって、精神そのものの中にある「何か?」が、彼らをあのような舞台へと押し上げていったのかも知れませんよね。

それが「運」だとか「星のもとに生まれた」と言うならそれまでですが、タイガースの金本だって本当に努力努力の人じゃないですか?その「何か?」・・・っていうのが一体何なのかは、やはり本人のみぞ知る・・・結局はそういう事になるんじゃないでしょうか。

Acoustic Guitar Freak Vol.3

昨日は午前中アコーステイックギター談義から始まった施療となりました。

このブログでもお馴染と成りましたYさん・・・今回は何と!アコースティックギターの代名詞&元祖・マーティンD-28(1978年製)のヘリンボーンを持ってきてくれました。

施療前にギターを弾かせて頂いたわけですが、やっぱりD-28ってオールラウンドに使えるギターなんですねぇ。ストローク&フィンガーピッキングは当然の事ながら、フラットピッキングは真骨頂で使えるんじゃないでしょうか。とにかく全域にわたってバランスが良く、6弦から1弦まで弾き降ろしたときも各弦の音がしっかり聴き取れるくらい音の分散が良いのに気がつきます。癖がない分、その他のギターに比べると派手さや主張がそれほど無いわけですが、どのような音楽にも使用できる優れたギターであることが解ります。

今回弾かせて頂いたD-28は外観もさることながら、ネックの状態、ボディーの状態もミントで、1978年製とは思えないくらい良好な状態をキープされていました。更にヘリンボーンということで通常のギターよりも音が前に出ていたわけですが、こういう見えないところに拘りが隠されているということが、またギターという楽器の奥深いところでもありますよね。私が弾かせて頂いた感じでも、今後更に音が出てくるんじゃないかと思ったんですが、今回のギターは繊細な鳴りが特徴的な感じがしたわけですが、やはり指弾きの多いプレイスタイルだったのかも知れませんよね。私の中ではど真ん中のストレート・・・一台は手元に置いておきたいタイプのギターでした。

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(YさんのD-28・ヘリンボーン)


お話によるとYさんはギター管理用の部屋を設けていて、湿度を丁度良くするためにエアコンを使用されているとのことしたが、さすがにそこまで出来る人も通常は少ないと思います。木でできたギターというのは湿度が高すぎたり低すぎたりすると木自体が変形を起したりギターの表板が割れたりして状態が悪化することもあるんですね。ですからギターケースに入れておく事も大切なんですが、反対にずっとケースにしまっておくのはギターにとっても良くないということになるわけです。ですからたまに爪弾いてあげる・・・ということと湿度が人間にとっても程よい状態を保つ・・・ということが、ギターにとっての最高のコンディショニングになる・・・ということになるんですね。これは人間も同じですよね。ずっと湿度の高い家の中にいれば、汗も出ずらくなって、代謝が悪くなりますから、たまには外で軽く汗をかく・・・それと全く同じ事ですからね(*^_^*)

しかし今回で3台目のギターを見せて頂いたわけですが、このYさん「良い目、良い耳をされてるなぁ・・・」と思いました。数ある中のギターをセレクトしていく場合には、こういった見る目、聴く耳を持った人じゃないと、なかなか良いギターには巡り合う事が出来ませんからねぇ。最もこれだけのギターをご自分で購入されて管理する・・・それだけでも凄い事ですよね。私には到底無理なお話ですから・・(苦笑)何しろギターをあんまり拭いてあげることもしてないので、Yさん・・・昨日はクロスまで置いていってくれました(笑)

次回は「00-18」を持ってきてくれるそうです。楽しみにお待ちしております!

午後からいらっしゃったKさんも実は音楽が大好きだそうで、昔はグループサウンズの演奏を見に行ったりしていたようですが、ギターにも結構ご興味がお有りのようでしたね。私が「ギター教室みたいなことにも興味があるんですけどね・・・いやもちろん趣味でね(笑)」とお話したら、「あら・・・それじゃ教えて貰おうかしら?」と仰りますので、こういう方々が私のところに一杯集まってくれたら、少し形になっていくと思うんですが、さらに今後の出会いを少し期待しているところなんですよね。

Acoustic Guitar Freak Vol.2 

昨日は朝から数ある中の名機(Acoustic Guitar)を持って、ご近所のYさんとお連れ様が施療に訪れてくれました。

今回のタイプは「oo(ダブル・オー」タイプのGUITARで、アメリカの某Martin Guitarリペアマンがハンドクラフトでオリジナル製作されたものだそうです。いや・・・こりゃ凄い代物です。発注をかけてから1年かかってようやく手元に届いたそうですが、それまで使用していたギターを2台ほど手放して購入されたそうですから、その価格もさることながら大切にされているのは当然でしょうね。Yさんがこのギターを愛しておられるのが一目瞭然で解りました。

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このタイプのギターはMartin Guitarの歴史の中でも主に1920年代頃に製作されていたものなんですが、グランドコンサートの12フレットタイプのギターは私自身もあまり弾いた事が無かったので、一体どんな音色なのか興味津々でした。以前、加藤登紀子さんがテレビなどで良く弾き語りされてましたが、フォークミュージックの世界でも渋い感じの方々が主に使用していますよね。

この大切なギターを施療前に(笑)早速弾かせていただいてみると、まず「その音量」に驚かされました。細長くてそれほど厚さも無いボディーなのに鳴りが凄い。それから各弦の独特な音質がこれまた素晴らしい。特に6弦の低音と1,2、3弦のバランスや、和音の味、それと高フレットに行くほど、その音量や音質が際立っているんですね。

とにかく今まで弾いてきたギターには無い感じのフィーリングです。ネックはVシェープで運指もほど良く運びやすく、演奏性についても文句なしです。ただ5フレット以降になると、やや幅広感が出てくるため、親指で6弦を抑えるグリップでは、やや辛いのかな・・・と思えるくらいで、とにかく小粋なボディーでサウンドも独特なふくよかさがあり、ギターの中でも女性的な雰囲気のあるゴージャスで素敵なGuitarでした。オーソドックスなD-45も素晴らしいギターですが、こういったオールド・ヴィンテージ・タイプのお洒落な感じのギターも、爪弾いていて楽しいですし旅行に行くときに一緒に持っていきたくなる感じがしますね。

私自身が以前使用していたMartin Guitarは「D-18」というタイプのものと、「000-16」という割と安価なタイプのギターだったんですが、ボディータイプの違いや木材の違いなどから、それぞれ出てくるサウンドにも違いがあって弾く人の好みというのもギターを選ぶ際の大切なポイントでもあります。ただし値段の高いギターというのは、それなりに木材の選択から厳選して行われていますし、それだけの時間をじっくりかけて製作されていますね。特に生産ラインには無いタイプのものというのは入手が困難ですから、Yさんのようにオリジナル製作して貰う人も多いんですね。そういうギターを買うのはやっぱりマニアになってしまうのかもしれませんが、それこそ「車」を買うか「ギター」を買うか?(笑)の選択になるくらいの出費は覚悟しなければならないわけで、当然 贅沢なお買い物になるわけですから今の私にとってはそれこそ高嶺の花ですねぇ・・(苦笑)。でもクライアントさんの大切にされている素敵なGuitarをこうして弾かせて頂けて今日も元気を頂きました。

施療後には二人で簡単なブルースを弾いてみたんですが、是非いつの日かセッションしてみたいですね。昨日は大切なギターを弾かせて頂きまして、Yさん ありがとうございました!次回も楽しみにしております(施療そっちのけにならないように気をつけますね・・笑)

それから以前、野球肘傷害でご相談をお受けしたことのある中学生(もう高校生になったのかな?)のお子さんから午後から直接連絡が入り、明日のご予約を頂きました。

6月は学生さん達もこれから夏の大会があったりして練習も毎日大変なんじゃないかと思います。是非 全身的なコンディショニングの一環として、また大切な肩や肘などの各関節チェックを兼ねて、まず故障しないように普段から体の手入れをしながらスポーツ活動を続ける事は本当に大切な事です。

私も是非高校球児の皆さんの応援をさせて頂こうと思っております。

それから先日、ママさんバレーのご指導をされている監督さんからのご紹介を頂きまして、施療に訪れて下さったTさんは「元社会人バレー」で活躍されていた大阪出身の方なんですが、「地元を離れて初めは淋しくて大阪に帰りたくて仕方が無かったけど、こちらの地域でバレーの仲間が大勢出来たので、今は本当に楽しい日々を過ごしています。」そう仰っておりました。

確かに旦那様のご転勤などで地元を離れる方々も多いと思いますし、ここ都筑区にはそういった方々も多いんでしょうね。スポーツの果たす役割の中には、そのスポーツを楽しむ同志の絆みたいなものもあって、それが生きがいに繋がったり、孤独な世界から解放されるものなのかも知れませんよね。まぁ週に何度か練習があったり、大会試合などが続いて、日頃の仕事や家事が重なって大変な事も多いと思うんですが、その大変さも楽しみに変えていけるのがスポーツの存在では無いかと私は思います。

何よりも若々しさを保つためにも、スポーツを続けて汗を日々かくというのは最高に良い事では無いかと思います。ただし疲労が溜まりすぎて、仕事もスポーツも楽しめなくなってしまったら、元も子もないので、そんなときには是非 疲れた体を一度リセットに来てください。

Tさんがお帰りになる際に「先生 こんなに一杯治療して貰って、こんなに安くていいんですか?」と、驚いておられましたが、これでも当初より経費が高騰して500円値上げさせて頂いたんですから、私自身も精一杯施療させて頂くのは当然なんです。とにかく楽になって頂くために、一日の施療数は抑えてでも、一人一人の方々に笑顔で帰って頂きたい・・・それが現在の日々の施療に対する心構えにもなってるんです。

開院当初からずっと通って下さってくれたクライアントさん達やこうして新たに来て下さったクライアントさん達が笑顔でいらっしゃるからこそ治療院がここに存在できるんです。その事を私も忘れず日々の施療に向っていこうと思います。皆さん どうぞ宜しくお願い致します。

Acoustic Guitar Freak Vol.1

今日はアコーステイック・ギター・フリークであるご近所のクライアントさんがお連れ様とご一緒に夕方から施療に訪れてくれました。

お約束して頂いていた【マーティン000-28 ハカランダ仕様】を持参して頂き、その大切なギターを私に弾かせてくれたんですが、やっぱり違いますねぇ・・・。ハカランダというのは「ブラジリアン・ローズウッド」の別名で、この木材を使用したギターは値段が高いのですが、何故かと言うとワシントン条約によって外国への輸出入が禁止されている木材だからなんです。ブラジリアン・ローズウッドっていうのはなかなか手に入らない木材なので、その木材を使用したギターっていうのも当然貴重品なんですね。

このブラジリアン・ローズウッドをギターの裏板部分(バック)に使用しているようなギターは、まず50万円以下では買えません。マーティン000-28モデルの中でもこのハカランダを使っている場合には下記の通り結構お値打ちモノになります。ですから当然大切に大切に家では弾かれていると思うんですが、今日はそんな大切なギターを私に弾かせてくれる為にわざわざ持ってきて頂いて、大変申し訳なく思ったんですが、この際思い切り弾かせていただいちゃおう!ということでね・・ガンガン弾かせて貰いました・・(笑)

しかし素晴らしい音色、そして弾き心地の良さに、しばしうっとりしながら・・「いつかは俺も手にしたいなぁ・・・」そんなささやかな望みを込めながら、今日も一生懸命 施療に励まさせて頂いたのでした。

Yさん、今日は至福の時間を本当にありがとうございました!
次回持ってきて頂けるギターも楽しみにお待ちしております。
お連れ様も今後とも是非宜しくお願い致します。

私記・野球というスポーツに夢を託して

プロ野球は交流戦の真っ最中ですが、パリーグのファイターズとイーグルスが頑張ってますね。ファイターズは故障者&怪我人が続出して、金子選手会長を筆頭に最近では森本君が手にデッドボールを受け骨折したりしてレギュラー陣が1軍からかなり離脱しています。そのぶん控えの選手や新戦力が頑張っているようですが、こういうときこそ真のチームの底力が出てくるというものです。その点から言えばファイターズの強さがこれから発揮されてくるのではないかと私は思っています。裏方であるトレーナーやコンディショニング担当も今が一番大変な時期だと思いますが、選手達を大いに支えながら優勝に貢献して有終の美を飾って欲しいと願ってます。

先日、台湾プロ野球に在籍していた元ファイターズのI選手から帰国の連絡が入り、明日の午後から治療しに来る事になってますが、私も彼とは久しぶりに会うので楽しみにしてます。台湾プロ野球は日本プロ野球と違って、年間契約では無く、1ヶ月ごとの契約になっているそうで、今回は不調により一時的な契約の解除があったようなのですが、野球選手達も現在はアジア・リーグ(日本、韓国、中国、台湾)といったアジア各国でプロ野球生活を送ることが可能になっており、日本で解雇されたとしても、他の国のプロ野球チームに参加して選手活動を続ける人が増えています。日本のプロ野球に比べれば、まだまだ契約期間や年棒の差はありますが、アメリカのメジャーやマイナーリーグを始めとして、野球を職業として生活できる場は多くなりつつあります。日本には日本プロ野球機構(NPB)以外の団体として、プロ野球独立リーグのチームが徐々に設立されてきており、「四国・九州アイランドリーグ」や信越方面に有る「ベースボール・チャレンジ・リーグ」などがあります。そのほかにはプロ野球のOB選手で構成された「プロ野球マスターズ・リーグ」などがあって、現役引退選手によってチーム構成されたユニークな展開を見せています。

野球というスポーツを職業としていく為には、給料を貰わなければなりませんが、そこには各団体や各企業関連独自の思惑や主張があるように思いますし、経済的な影響を受けることは否めません。それらの課題を乗り越えつつ、一つのまとまった野球組織の集合体として世界的統一も望まれるていることは当然としても、サッカー界に比較すればまだまだ野球界の可能性は限りが無く、今後も発展していけるように思います。

世界的にはロシアやヨーロッパ諸国など野球発展途上国が積極的に参画していけば、近い将来には素晴らしい世界大会が開けると思いますし、そういう面からすれば野球に一生を捧げる・・・という生き方を貫くことはいずれにしても可能であり、メジャー野球にサムライ日本人として一人アメリカに渡った野茂選手の姿を通じながら、その先人的なライフ・ワークに思いを馳せています。彼が近鉄バッファローズ時代に見せた無骨な表情でマウンドからボールを投げる姿は今も変わらず、トルネードから夢を乗せて生きる野茂の姿は、その後の日本人プロ野球選手達のメジャーリーグ挑戦に大きな影響を与え続けてきました。

サッカーに比べれば野球を継続できる年齢というのは高く、40歳まで現役を継続している選手は大勢いますし、そういう面から考えてもベテランの妙味、ベテランの存在感を発現しながら、野球に一生を捧げる人達はこれからも増えていくと思います。

現役を引退しても指導者としてユニフォームを着れば、そこにはまた新たな挑戦があると思いますし、プロ野球だけでは無く、アマチュア界にも多数野球の指導を望む声は高いのでは無いかと、地域の少年野球やアマチュア界を通じ感じます。

サッカー界ではJリーグの各チームのジュニア・ユース・チームが存在し、積極的に将来のプロ選手達の育成に力を入れておりますが、そこにプロ野球界との大きな違いを感じています。今後はそういった野球選手育成の活動形態やその裾野を大きく広げながら、将来的に亘って道を広げていく活動こそ未来を担う子供達の大きな夢の展望に繋がっていくことになるのでは無いかと私は感じています。

サッカーと野球の違いには、その競技特性はもとより環境による制限の差にあると思います。サッカーはボールが一つあれば、どんな小さな広場でもミニ・ゲームが可能ですが、野球にはそれなりの大きさや環境が必要です。昔 私達が手軽に野球に準じたゲームを楽しむために、「三角ハンドベース」なるものを行っておりましたが、そういう工夫や創造性によって野球を小さなスペースで楽しむことも可能です。しかし地域にあるバッティングセンターなどは非常に少なく、野球技術の鍛錬の場が少ないことは将来的にも憂えるべきことでは無いかと感じますし、小学校によっては校庭が狭くて打球が校舎の窓ガラスに当たって危険だという理由から、野球を行うこと自体を禁止している学校さえあります。

また大きな公園でもバットを振るのは危険であるということから、野球が出来ないような公園も存在していますので、そういった面から考えても野球が環境に制限され行えない場所が増えているということは非常に危惧されるべきものであります。

日本のプロ野球界が将来に亘って発展していく為には、そういった環境の整備や野球技術の習得に関する裾野を拡げていく運営が望まれるのではないかと思います。各球団にとって観客動員数の増加を遂げていく事は大切なことですが、そういった未来の選手達を育てていく為の地盤を固めていくことも大きな課題となっていくように感じます。そういった活動や整備を広げていくことで日本の野球界の発展が将来に亘って広がりを見せながら、今後の世界的な野球の統一組織によって真の世界スポーツへと発展していくのではないかと思います。

いつの時代も古き概念を一度捨てなければ新たな発展が望めないように、伝統をこよなく愛する人達もいつかは死を迎え世代の入れ替わりというものがありますが、新たな価値観をもった子供達が夢を抱きながら野球というスポーツに希望を見出し元気に行っていけるように・・・それが切なる願いであり、私の想いでもあります。

人生の処方箋・・・「生きる」

ここには先天性四肢切断という障害を持って生まれた、乙武さんの小さい頃からのエピソードが掲載されております。

人生の処方箋/障害(先天性障害)

乙武さんには私も以前、東京ドームで何度かお会いしたことがあって、もちろん挨拶をしたぐらいなので本人のお話しを直接伺ったりしたことは無かったのですが、彼の堂々とした人格やテレビの画面から伺った知才ぶりは皆さんも良くご存知の通りだと思います。

私はこのウェブサイトのエピソードを読んで、心から感じた事がありました。

彼が生まれたばかりのお母さんの関わり方に関する素晴らしいお話しや、小学校での学友や先生達とのエピソードがとても印象的だったのですが、障害を生まれながらにして持った乙武さんが、どうしてあれだけの光を放ちながら生活をし活動されているのかが、それらを通じて良く理解する事が出来たということなのです。そして身体障害という「大きな壁」を外から見ていた私の感覚と、実際に障害を持って生まれた乙武さんの心の在り方には大きなギャップが存在していることにも気が付かされたのです。

私には手もあるし足もあります。しかし、もし今この手足が私の体から無くなったら一体どんな気持ちで生きる事になるのかを想像しただけでも、それは嫌で嫌で仕方がありませんし、もしかしたら自殺したくなるくらい辛い出来事になるかも知れません。

生まれながらにして備わる身体的機能、つまり目が見える、耳が聞こえる、手や足があって、痛みも快感も感じられるということ。それから精神的機能、つまり物事を思索したり、感動したり、創造することが出来るということ。それらが全て自分自身に備わっているということが、どれだけ素晴らしいことなのか本当は解っていなかったんだ・・・と、乙武さんのエピソードを読みながら私は考えさせられました。だからこそ障害をもった乙武さんのハンディというものがどれだけ大変な事なのかということを考えてみたのですが、そこには私自身の大きな思い違いというものがあったのです。

乙武さんの心の中は雲ひとつ無い晴れ渡った青空のような境地であり、自分自身をしっかりと築きながら立派に生きておられます。彼は小さな頃から手足が無いという事を自分の「特長」として捉えていたのです。乙武さんというのは本当に凄い人です。素晴らしい人間ですね。世の中には彼のように身体的なハンディを背負いながらも、悠々自適に人生を謳歌している人もきっと沢山いらっしゃると思いますし、そのハンディを悔やみ、嘆き、苦しんでいる人達ももちろん大勢いらっしゃるのではないかと思います。

限られた身体的機能という現実があっても、誰かの援助や介助を最小限に受けながら、しかし自分の事は自分で解決していくという強い意志、そしてハンディは自分の特長なんだという自尊心が備わっているからこそ、乙武さんのような素晴らしい生き様を表現し貫くことが出来るのだ・・・ということを心の底から感じることができました。

ここで乙武さんが自分自身を省みている言葉をここに記しておきたいと思います。

【「大切にすべき自分」とは、一体何者なんだろう?と考えた時、真っ先に出てきたのは「障害者」と言う文字でした。これは僕にとって驚くべき事でした。と言うのも、それまで「自分が障害者だ」と言う事を意識して生きて来た事が無かったのです。であるならば、どうして僕は障害者なのでしょう。多くの人が健常者として生まれてくる中、どうして僕は身体に障害を持って生まれてきたのだろう。そこにはきっと意味があるのではないだろうか。障害者には出来ない事がある一方、障害者にしか出来ない事もあるはずだ。その事を成し遂げて行く為に、この様な身体に生まれてきたのではないかと考えるようになったのです。

そして次の瞬間「何をやっているんだ、自分は!」と思ったのでした。そのような役目を担って生まれて来たのであれば、僕はとてももったいない生き方をしている事になる。折角与えてもらった障害を活かしきれていない。言ってみれば「宝の持ちぐされ」なのです。乙武洋匡にしか出来ない事は何だろう?この問いに対する答えを見つけ出し、実践して行く事が「どう生きていくか」という問いに対する答えになるはずだ。】

素晴らしい言葉です。本当に素晴らしいと思います。そうなんですね。自分にしか出来ない事があるから、私達は今ここに存在しているんですね。私もまた一歩一歩階段を昇っていくようにしながら、日々努力をしていきたいと思っています。


乙武洋匡オフィシャルサイト

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それからお医者さまの観点から、人の死に際に際する良いお話が書いてありましたので、こちらもご紹介したいと思います。


人生の処方箋(死ぬ時を見ると、どんな人だったか分かる)

私の妻は老人介護施設に勤める看護師です。仕事柄、ご高齢者の亡くなられる場面に接する機会があって、妻からはそんなご高齢者の方々の死に際する様々なお話を聞くことがあるんです。それは数年前のお話だったのですが、ある日 九十歳になるお爺さんが施設で亡くなったそうなんです。そのお爺さんは家族がお見舞いにいらっしゃると、とても元気になって不鮮明だけれど、そのご家族に色んなお話をしていたそうなんです。そのおじいさんが看護師の皆さんに看護を受けている最中に、ある日こんなことをおっしゃったそうです。

【「人間には使命があるんだよ。みんな使命があるから生きてるんだ。ぜーんぶやり終えたら、ワシのように死ねるんだからね。みんな覚えておきなさいよ。」】

妻は就寝間際に以前、私にそんな話をしてくれたのですが、その後にお爺さんが亡くなったそうなんです。そしてその死に際は本当に安らかで幸せに満ち溢れたお顔をしていたそうなんです。私はそのお爺さんにお会いはしていませんでしたが、そのお爺さんの事を考えたときに、何故か嬉しい気持ちになっていたんです。看護師の皆さんに仰った言葉が私の心にも響いていたからです。人間が生きる・・それは凄い事ですね。そして私もそんなお爺さんのように大切な言葉を未来の人達に遺せるように生きていきたい・・そう思ったのです。



また昨晩、テレビの番組で先天性難聴の山形県生まれの女性が、「自分の夢」である歌手を東京で目指している・・というドキュメンタリーを見ていました。彼女はジェット機の爆音を間近で聞いて、やっと少しの音が聞こえるという程の難聴で、幼い頃に母親から人の唇を見て何を話しているのかを読み取る訓練をさせられてきたというのです。そして何度も何度も「あ」や「か」といった音声を練習して、やっと喋る事が可能になったのです。幼い頃にはテレビの音楽番組を見ながら、見よう見まねでアイドル歌手の歌を歌うのが大好きになった彼女は大人になって都会に出てきて就職をします。そして毎夜 仕事帰りに聞いていた路上でギターの弾き語りをしている男性にある日彼女は話しかけました。彼女はストリートライブを行っていたその男性といつからか一緒に手話と踊りで参加し始めました。

その二人が「アツキヨ」というユニットでメジャー・デビューすることになったのですが、当初 彼女はそのメジャーデビューする為の歌『kiseki~もうすぐおこる奇跡を信じて』を練習する中で挫折しかけていました。何故なら彼女は難聴によって自分の声が聞けないのですから、歌の音程を取ることは不可能に近いほど苦難を極めたからでした。しかし相棒の男性の励ましや皆から貰った励ましの寄せ書きのおかげで、レコーディングを最後までやり遂げ、遂にCDデビューを飾る事が出来ました。私はこの二人の姿から、夢は必ず叶うと信じて生きるということの素晴らしさやその生き様に感動しました。だからこそ「今 この時」という人生がきっとあるんですね。

日本社会と自殺・・いじめの構造

2006年12月、私達家族はファイターズの優勝旅行の為、ニュージーランドの旅に出かけました。

そこは大自然と動物と人間が豊かに暮らすことの出来る素晴らしい国でした。そして30代の頃、日本全国を飛び回って各地を旅しながら仕事をしてきた私自身が、ニュージーランドの人々の暮らしと、日本に住む我々の暮らしぶりとの違いを、そこで大きく感じないわけには参りませんでした。その中で今日はこんなテーマから少しお話しをしてみたいと思っています。

21世紀に入り、日本人の自殺者は急増しているように思いますが、これは全世界中を比較しても上位を占める割合です。自殺に対する年齢層・職種(無職者も含む)・原因などを調べてみると、一般的傾向が良く表れてくるのですが、一番の原因はやはり【周囲環境と精神環境の問題】に絞られてくると私は思います。

一昨年、日本では学童による自殺問題が社会で大きく取り上げられる事態に見舞われていました。日本の教育環境と学童に対する精神的な配慮・教育に対する問題点の中に【いじめ】が最大テーマとして挙げられてきたように思いますが、何故教育現場でそのような【いじめ】が発生し、何故その【いじめ】によって自殺をする子供達が増えたのでしょうか?私は様々な角度からそのことについて想いを巡らしながら、これらの事実を通してずっと自殺問題を考えてきました。これは学校や家庭環境の問題だけでは無く、日本の社会構造の問題の一端として大きく捉えてみたらどうなのか?・・・というのが私なりの観点であり、また大きな疑問でもありますが、自殺の本質的な問題点では無いのかと考えています。

【いじめ】を大きな目で捉えてみると、その形態は様々なものがあると思いますが、いじめという言葉からイメージを呼び寄せてみると「閉鎖・孤立・集団・弱者・暴力・失意・不満・圧力・怒り・嘲笑・差別・罵声・無視」など、様々な言葉達が出てきます。しかしこれらのキーワードは何も学校社会のみに存在するわけではありません。社会の中でもこのキーワード達は多く存在していますし、それらが社会構造の中で生まれていく過程は様々な形態であると感じます。

【村八分】という言葉があるのは皆さんもご存知かと思われます。形骸化した言葉ではありますが、日本の社会構造の中で生まれた村八分は、部落民などによって、個人に対する絶交や畏怖などを村の人達が集団で行い、その対象者である個人の生活を脅かす行為と言われています。これらは現在、法律の中でも脅迫罪の適用が課せらており、もちろん禁じられた行為であり犯罪として扱われます。

この脅迫罪に関して、【脅迫行為】とは「脅迫罪においての脅迫は、人の生命、財産、身体、名誉、自由(通説によれば貞操や信念も含む)に対して害悪する告知を行うことである。相手が恐怖心を感じるかどうかは問わない」とあるように、個人に対する保護法であり、要するに「何ものにも生活を脅かされることは法の下で許されない」ということになります。個人を攻撃し、その個人の生活・行動を積極的に脅かすことは法律上でも禁じられている通り、「いじめや村八分」は「犯罪」です。そして脅迫罪以外にも強要罪、恐喝罪、詐欺罪などがあり、法律の下では個人の尊厳を破る行為は罰せらるる対象になっています。

学童のような未成年者において、これらの法律がどのように機能し、適応がどのようにして行われているのかは、未だ調べていないので私には解りません。ただ学校社会における教育者権限や教育指導要綱に定義されている内容とは当然、それらの法律に準拠しているのでは?と思います。学級内や校内における「いじめ」に対する問題には、教育者の威厳をもって対応していく事が望まれるのですが、体罰への問題視など、学校の先生が抱える問題点には親との関わり合いも密接になってきます。そういう点からすれば、親の過保護による子供達の無秩序さそのものを問題視しないわけにはいかないのではないかと私は感じています。

生徒達の学力の向上、人間としての尊厳、集団と個人との関係性や未来への希望など、これから大人へと成長していく子供達への教育の在り方というのは本当に大切であり、その子供達が将来の社会の主人公である以上、その子供達と親や大人たちの関わり合いというものが、彼らに大きく作用を及ぼし影響を与えているということを忘れてはならないのではないかと思います。

子供達は学校の先生や親や社会に生きる大人達の姿を通して社会を見つめています。

「閉鎖・孤立・集団・弱者・暴力・失意・不満・圧力・怒り・嘲笑・差別・罵声・無視」これらのキーワードを私達がよく考え、自らの行動を省みていく必要があることは言うまでもありませんが、「不正」「規律」「自由」「希望」・・・これらのキーワードにも真摯なる態度が求められてくるのではないでしょうか。悪いというのは何なのか?正しいというのは何なのか?規律とは何なのか?自由とは何なのか?それらを充分考えながら生きていかなければならないのは大人である私達では無いかと感じています。

社会構造の多様性の中において、大切なものが失われていくとすれば、それは経済というものの表層のみに関心を向けて、大切な心を失ってしまうことにこそ警鐘を鳴らしていくべきでは無いのかと私は感じています。
経済苦、病苦、諍い、絶望・・・自殺者の原因は様々だと思いますが、同じ人間として人生の坂を共に歩むということを成し遂げていく為には、人間誰にでも助け舟が必要なときがあるのだ、ということを忘れてはならないと思います。

人間という字は「人の間(あいだ)」と書きますが、人間とは人と人との真ん中にある「何か?」を探しながら生きていく存在であり、その「何か?」に対する答えの中にある「慈悲、尊敬、希望、夢、思いやり、優しさ、厳しさ・・・そして真の強さ」それらのキーワードが入った時にこそ、人は人間として共に生き、そして共に死ぬことができるように感じています。

ニュージーランドに暮らす人々の人種は様々でした。そこで生活する全ての人達が経済的な豊かさをもって暮らしているわけではありませんでした。食べ物だって日本人のように贅沢三昧では無かったし、道を走っている自動車も日本から輸入した日本車の中古車が7割を占めているそうです。消費税は12%も取られていましたし、平均年収も350万円だということでした。しかしニュージーランドに住む人々は夕方の5時半になると仕事を終え、皆んな家路につき、家で家族と過ごす時間を有意義にもっているというのです。一般道路は最高速100kmで走っていました。高速道路は無料で走れます。犯罪が全く無いわけではありませんが、夜になれば家でゆっくり過ごす時間を大切に出来るようでした。そしてそこに住む民衆は国土である自然を愛し、自らの夢を追いながら一生懸命に働き、遊び、自分に誇りをもって生きている人達が多いのでは無いかと私は感じました。

我々日本人がニュージーランドに住む民衆と全く同じ生活になることを望んだとしても、そこには環境の違いというものが存在していますが、日本という島国で暮らす我々の生活を支えているものは国土にある自然や地域環境であり、そして経済の中で存在する家庭というものです。それは何処の国においても変わらないものでしょう。

しかし自殺の多い国の中でも上位を占めている国はロシアであり、日本も上位のうちに入っています。ロシアの国土に比較すればこんなに小さな島国であるのに、実は年間に3万人もの人々が自らの命を死に追いやっているのです。その数は一年間の交通事故死者の数をも上回っているのです。これは大きな社会問題では無いかと私は思っています。その事実を考えるにつけ、「ありのままの国の姿や、ありのままの日本人の姿」を見つめないわけには参りません。文化とは人間性の表れであり、芸術や音楽はその文化の中でも希望に満ち溢れた世界、存在であると思います。そういった人間が創造しゆく文化そのものを昇華させていく為には、真の強さが必要ではないかと思います。一人の人間が勇気をもち、どのような環境や境遇に生きようとも、強く逞しく生き抜く力を自らが示す事で、周囲に存在する人々に大切なものを感じさせることが出来るのだと私は思います。

1本の木も何十本、何百本もの木が集まれば大きな台風が来てもなかなか倒れません。そして人間も一人では生きていけないのです。この日本に住む我々大人たちが互いに支え合って生きていく姿を子供達の目に映し出していくことが今、この日本に住む子供達にとって必要な事では無いのかと思います。